遺書(ブログ)

1000円のトラウマ

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昨日行った温泉施設のトイレの個室で100円を拾ったので、フロントに届けた。

「走れ正直者」か!と思わず自らツッコんでしまった。

もちろん正義だ。お金を拾ったら届けるのが正しい。
しかし100円だ。金額の大小ではないと思うが、この場合は金額の大小である。
落とし主は自分が100円を落としたことに気づいていない可能性が大であるし、もし気づいたとしても探しに来ることは、まあないだろう。
フロントに届けたところで、バイトのポケットか店のレジか、結局入る場所が変わるだけだ。
そのまま自分のポケットにしまっても、たぶん神様だっておれを責めない。
それでもおれは届けた。

これには理由がある。

遠い昔。おれが19の頃だ。
代々木の予備校に通っていたおれは、校舎のトイレの個室で1000円を拾った。何のためか、裸の千円札がトイレタンクの上に置かれていた。「おおラッキー♪」とつぶやきながら、迷わずおれはこれをポケットにしまった。
もう29年も昔の話なので許してほしい。
言い訳になるとは思っていないが、おれは貧乏な予備校生だった。
たまには、かけうどんにかき揚げを乗せたかった。まあそれくらいの認識である。

自らに訪れた思わぬ幸運にホクホクな気分で教室に戻ると、後ろの席に座っていた別の予備校生が、「あっ」と小さな声をあげた。そして隣の友達にこう言っているのが聞こえた。

「まずい。トイレに1000円置いてきた。ちょっと行ってくる!」

・・・間違いない。
それはおれのポケットに入っているコレだ。

急に罪悪感に苛まれた。
1000円といえば、予備校生にとっては大金である。おれが誰よりも知っている。
今日の昼食代だったかもしれない。教科書を買うお金だったかもしれない。自宅へ帰る交通費だったかもしれない。
わからない。しかしどういう意味を持とうが、1000円という金額は、貧乏な予備校生の生活に多少なりとも影響を及ぼすインパクトをはらんでいることに変わりはない。

しばらくして、肩を落としながら教室に戻ってきた彼を、おれは直視できなかった。

落とし主がわかったのだから、返せばいい。
そう思うかもしれない。しかし現実的に考えてみてほしい。
「これ、トイレで拾ったんだ」と、今さらポケットでくしゃくしゃになった1000円札を見知らぬ彼に渡せるだろうか。

実際、渡せなかった。不自然だし、なによりも、一度自分のものにしてしまおうと思った下心は決して隠せない。

今でも、こうした公共のトイレに入る度に、必ずこの小さな罪悪感を思い出す。
もう一度言う。「トイレに入る度に」だ。
したがって、あれから29年だから、何千回もこの場面を脳裏に映し出している。
1000円に対する罰だとしたら、あまりに大きすぎる。

忘れたくない記憶はどんどん消えていくのに、おれがトイレを使い続ける限り、このことだけは決して忘れられない。今では心からこう思う。

1万円払ってもいいから、あの1000円札を彼に返したい。

以来、(トイレだけでなく)お金を拾うことは人並みにあったが、おれは必ず交番か施設に届ける。小額ならば「拾わない」。

小さな出来心は、後に大きなトラウマとなって残ることがある。
そして、長い人生を歩んでいれば、誰だってこんなトラウマで傷だらけだ。

この先はもう余生だ。
できるだけ誠実な判断を重ねて、少なくとも傷を「増やさない」ことだけは心がけたいと思う。

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