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【今際のライター論】AIはライターを殺すのか? 1998年から業界の端っこにいる僕の結論。

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1998年から出版業界の末席に身を置き、主に紙媒体でペンを握ってきた。四半世紀もこの商売を続けていれば、嫌でも時代の変わり目というものに直面する。なかでも鮮烈に記憶に刻まれているのは、00年代はじめのカメラマンたちがフィルムからデジタルへと主戦場を移したあの転換期の光景だ。

当時のカメラマンは、職人であると同時に科学者だった。現場で機材を組み、ライティングを凝らし、レンズを選び抜いてシャッターを切る。だけど、その場では仕上がりを確認することなどできない。現像を終えるまで結果は闇の中だ。それにもかかわらず、彼らはどんな過酷な状況下でも完成図を脳内に描き、実際その通りに写し取ってみせた。その予見能力と確かな技術こそが、プロをプロたらしめる凄みだった。

ところが、デジタルカメラが普及し、誰もがその場でモニターを確認しながら撮影できる時代が訪れる。「ああ、これでカメラマンという職業はなくなるのかもしれない」。当時、若い僕は無責任にも、しかし妙な納得感を持ってそんな未来を予感した。だが、僕の浅い見立ては外れた。

結論から言えば、カメラマンは衰退するどころかクオリティを上げたのだ。彼らは「仕上がりを予見できる職人」というかつての特権にすがりつかなかった。むしろデジタルを利用することで、クリエイティブそのものの基準を一段引き上げた。フィルムという物理的な枷を外し、いくらでも試行錯誤ができる環境で、彼らはさらに撮影技術を磨き抜いた。それだけじゃない。撮影後にアプリケーションでレタッチを施すことで、仕上がりを極限まで研ぎ澄ます術を手に入れた。デジカメは確かに素人でもそれなりの写真が撮れるようにしたが、同時にプロと素人の間にある決定的な溝を、より深く、鋭いものに変えたのだ。

今、ライターの世界でも全く同じ現象が起きている。生成AIが発達し、誰でもある程度の文章を吐き出させることができるようになった。それを見て「ライターという職業も消えるのか」と囁く声が聞こえてくるが、僕はあの時のカメラマンと同じことが言えるのではないかと希望的観測を持っている。

確かにAIを使えば、それらしい体裁の文章は作れる。だけど、プロはそれをそのまま「上がり」にはしない。アマチュアはAIが出力したテキストを見て「これでいいじゃないか」と満足するだろう。かつてデジカメで撮っただけの写真に満足した人々と同じように。しかし、「読者ターゲット」と「そこへしっかり伝えることができる完成イメージ」が明確に見えているプロのライターは、AIを使いつつも、そこから徹底的に磨き、叩く。

わざわざゼロから書かなくていい代わりに、浮いた時間を——なんならそれ以上の時間を——費やして、文章を極限まで理想のイメージに近づけていく。AIに指示を重ねてもいいし、途中からそれを叩き台にして自分の手で仕上げてもいい。結果として、同じテーマの記事であっても、アマとプロの間には雲泥の差が生まれる。むしろAIという道具を使いこなすことで、素人との決定的な差をさらに深めることすら可能になっていくはずだ。

ある若いITビジネスマンがよく口にしている。「こんな文書ならAIを使えば10分で作れますよ」「ちょちょいのちょいですよ」と。そんな言葉を耳にするたび、僕はデジカメ時代の荒波を見事に乗り越えたあのカメラマンたちの姿を思い出す。

道具が進化し、便利になればなるほど、最後に残るのは「どこまで高みを目指すか」という個人の意志と美意識だ。AIという加速装置を手に入れ、余った時間でどれだけ言葉を研磨できるか。そこに、これからの時代を生きるライターの真の意義があるのだと僕は信じている。

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