仕事部屋には23年前に亡くなった父の仏壇がある。
母が13年前に60歳で再婚するまでは母が実家で管理していたのだが、それ以降は、位牌ごと長男のおれが引き取っている。
以来、家にいる時は毎朝起きたら、必ず仏壇に線香を焚き、手を合わせるのをルーティンとしている。
手を合わせると「今日も無事に過ごせますように」的なことを祈りがちだが、父は神様じゃないので、基本は「おはようございます」と心の中で唱えるのみだ。
それでも毎朝手を合わせているわけだから、「おはよう」の挨拶以外も話しかけることはある。
「今日はダルいんだよな。まあ会社行ってくるよ」
「今日は○○の取材だ。頑張るよ」
「これから野球観戦だ。楽しんでくるぜ」
「今日は娘の運動会だ。孫の活躍見ててくれ」
「娘が通知表でほとんどオール5だったぞ。すげえだろ」
その日の予定に合わせてアレンジを加えることもある。もちろんそれに対する返事はないが、一方的に語りかけると、なぜか落ち着いた。
これを13年間続けてきて、ふと思った。
もう、父と生前に交わした会話量をゆうに越えているだろうなぁ、と。
おれは、生前の父にこれほど話しかけたことはない。
中学生で反抗期に入ると、親と話すのが急に恥ずかしくなり、おれから父に話しかけることはなくなった。
父も無口な人だったから、自然と会話は途絶えてしまった。
いわゆる「反抗期」と呼べる時期が過ぎても、復活(と呼べるかどうかわからないが)することはなかった。
高校受験が終われば友人関係に悩み、今度は大学受験。大学受験が終われば、楽しい大学生活にうつつを抜かしているうちに、就職活動の氷河に放り込まれた。就職すれば、厳しい現実に対峙するのに必死で、家族を振り返る心の余裕などなかった。
そして、社会人1年目のどさくさに、父が死んだ。
結局、父とはほとんど会話をすることなく、物理的に言葉をかわすことは不可能になった。
これは個人的ブログなので、包み隠さず告白する。
父が死んだとき、涙は一滴も出なかった。
さらに口に出したくないことをあえて言えば、悲しくもなかった。
死んだ瞬間も、通夜や葬式の最中も、画面の向こうでドラマか映画を観ているような感覚だったのを覚えている。
前述したように、物心ついてから、父との楽しい思い出はほとんどない。
それでも、なんとなくDNA的に悲しくなるものだと思っていた。
おれは、人間としてどこか大切な回路が壊れているんじゃないかと思った。
誤解のないように言っておくと、異様に厳しかったとか、暴言が絶えなかったとか、暴力を振るわれたとか、そういう父親ではない。
気が弱くて無口な、ごく普通の父親だったと思う。
人並みに愛情は注がれてきたし、時々優しい言葉もかけてくれた気もする。
ただ反抗期のおれが、意味もなく家族を遠ざけてしまっただけだ。
そんなことも気づかずに、おれはのうのうと高校を出て、あろうことか浪人し、私立大学まで出た。
言うまでもなく「父が稼いだ金」でだ。
感謝の気持ちなんて、これっぽっちもなかった。
今となれば、
「誰の金で勉強できてると思ってるんだ!」
と、父の代わりにおれが怒鳴りつけてやりたいくらいである。
それでも父は何も言わずに、おれの背中からただ見つめ続け、それをいいことに、おれは父と距離を取り続けた。
そして。
おれは、父が死んでも悲しまない息子になってしまった。
ここまで気づくのに10年かかったが、これに気づいたとき、ようやく悲しくなった。
なぜもっと父と会話をしなかったんだろう。
別に離れて暮らしていたわけじゃない。
家族と向き合う余裕がなかったと思っていたが、振り返れば話す余裕くらいあった。
あの頃の父が、おれに対してどう思っていたのか。こんな親不孝な息子でも会話したかったのか。それとも、何も気づかない阿呆な息子に呆れ返っていたのか。
もはや、知ることすらできない。
謝ることも、感謝することもできない。
歳を取り、父が死んだ年齢に近づき、等身大の感覚に焦点が合っていくごとに辛くなる。
親孝行、したいときには、親はなし。
こすり倒されすぎて、もはや陳腐なフレーズの代表みたいな言葉だが、今のおれにはよく沁みる。
親孝行できなかった息子は、罪としてその後悔を一生背負っていかなければならない。
しかし、一方で最近おれはそのステージすら超えて、こうも思っている。
なき親を、偲ぶ気持ちも、親孝行。
あえて不謹慎な言い方をすれば、死んでしまったものは仕方がない。あの頃に戻れるわけじゃないし、後悔は消えることはない。
だったらおれは、残された人生で、できる親孝行をすればいい。
それが、仏壇の向こうにいる父に毎日話しかける、ということだ。今までもやってきたし、今後もやっていける。
何の脈絡もないけれど、明日の朝は、生まれて初めて、父に感謝と謝罪の気持ちを伝えよう。