深夜にウォーキングをすることが多い。
毎日同じ道を歩くのは飽きるので、けっこう人通りの少ない寂しい道も選んだりもする。
暗闇の中、黒いトレーニングウェアを着て、ニット帽を深くかぶり、ネックウォーマーを口まであげて歩いている中年。自分でいうのもアレだけど、かなり怪しい。
娘がいるので、スマホに近所の不審者情報が流れてくるよう設定しているのだが、情報が届くたびに自分のことじゃないかとドキドキする。
そんなスレスレの地域を夜な夜な徘徊しているわけだから、これまでけっこう怖い体験もした。
ガラの良くない繁華街の外れでは、あっち系の恐ろしい兄さんに睨まれる(謎の警戒)ことはしょっちゅう。
同じあたりで、自動販売機をひたすら蹴っている危険人物も見かけた。
チンピラ同士の喧嘩にも3度ほど遭遇したこともある。
エンジンがかかりっぱなしの車が、ただギシギシ揺れているのを見た(これは怖い話ではないが)。
闇の河原で虚空を見つめる人の影を見た。
神社の境内で女性を見かけた時はゾッとした。
ざっと思い出しただけでも意外とあって、書いていて自分でも少しビックリしている。
そして昨夜、おそらくこれまでで一番恐怖を感じた出来事があった。
昨夜は久しぶりに、車の往来が多い大通りではなく、なるべく静かなコースを選びたいと思った。
そうなると、終電も終わった電車の高架下沿いを歩くのがベストだ。自宅から最短距離でガード下を目指し、突き当たったところから延々と高架沿いを歩いた。
この時間の高架沿いは本当に人気(ひとけ)がない。
ガード下の柱と柱の間は駐車場や駐輪場に利用されていることが多いが、なかにはちょっとした公園になっているエリアや、空地になっているエリアもある。
防犯対策のためか、そんな場所にも蛍光灯が設置されており、闇が作られないようになっている。
ただしどの蛍光灯も弱々しく、なかには切れかかっていて点滅しているものもあり、ある意味で暗闇よりも不気味に映る。
よく通る場所ではあるのだが、こうして改めて注目すると、異空間に迷い込んだ感覚になり背中がゾクゾクする。
……やっぱり気味が悪いな。
なぜか早足になった。
何かを警戒するかのようにガード下の空間を凝視しながら歩いていると、蛍光灯が完全に切れている箇所を見つけた。
「あれ?あそこ、電気が切れてるな…」と暗がりに目を凝らしたその瞬間である。
まさしくその闇の中にホワッと女性の顔が浮かび上がったのである。
「うわあっ!」
と本当に声が出た。
心臓が飛び出るかと思った。
暗闇に浮かび上がったのは、間違いなく若い女性の顔だった。
しかし、その顔が”霊的なソレ”ではないことは、すぐにわかった。
よく見ると、暗がりで女性がしゃがみながらスマホをいじっていて、画面の明かりが顔を照らしただけのようだ。
女性もおれに気づいたようで、こちらに顔を向けた。ニコリと笑った(ような気がした)。
「ふぅ……なんだ、よかった」
などとは1ミリも思わなかった。
おれは恐怖のあまり、声にならないうめき声をあげながらダッシュしていた。
とにかく全速力でその場から逃れたかった。
彼女は霊的なものではない。
それは断言する。たしかに実在する若い女性だった。
それでも、いや、だからこそ底の見えない恐怖を感じた。
理解不能。脳内混乱。恐怖逃亡。
疑問を感じるより前に、防衛本能としてとにかく逃げた。最短距離で車通りの多い大通りに合流し、通り沿いにあるファミレスへと駆け込んだ。
ガード下の不気味な世界観から一転して、よく知る深夜のファミレス特有のけだるい雰囲気に、やっと“こっち”の世界に戻れた気がした。
温かいコーヒーを飲みながら、いまの出来事を冷静に反芻する。
深夜1時の人通りゼロのガード下。明るい場所もあったはずなのに、あえて暗闇を選んで彼女はいた。
誰かと待ち合わせか?いや不自然すぎる。
ならば嫌なことでもあって、あそこに逃げ込んでいた?
それとも、本当に誰かから逃げている?
逃げているにしては、あの「ニコリ」が不可解だ。
深夜にオッサンと目が合った。なぜあの状況で笑顔がつくれるのだ。
「あっ、わたし幽霊じゃないですよ。怖くないですよー」ってことか。
いや死ぬほど怖いわっ!!!!
若者世代の感覚が見えなくなってきて、だいぶ時間が経った。そもそもおれは、「若者」と呼ばれる生き物が生理的に怖い。
隣の席では、ガラの悪いヤンキーグループが、ビールを飲みながらどんちゃん騒ぎしている。
普段なら、最もおれが恐怖を感じる類の生き物だ。しかし、「高架下の女」の件もあってか、その時まったく怖さを感じなかった。なぜか。
まだ理解できるからだ。
彼らの怖さは若いことだ。若いがゆえに欲望に忠実で、守るべきものが小さく、それゆえに社会の理屈が一切通じないことだ。
つまり動物と一緒だ。だから一人前の人間として接しなければいい。
ところが彼女は違う。
人間でも、たぶん動物でもない。
もちろん霊的なものでもない。
おれが50年近くで培ったどんな理屈にも当てはまらない怪物に見えた。
だから本能的に逃げた。
その行動が正解か不正解かはもはやわからない。そもそも逃げずにいられなかったんだから、どちらでもいい。
ファミレスで30分ほど休憩して、帰宅することにした。
当然、明るい大通り沿いを選んで家路をたどる。
車通りが多く、人の往来もちらほらある。
そんな”安全”な道でも、いまだにあの不気味な「ニコリ」が頭から離れない。
彼女はいまもあの暗闇でスマホを覗いているのだろうか。
“そこを曲がれば件の現場だ”という地点を通りかかったとき、一瞬だけ気になったが、当然見に行く勇気などなかった。
むしろ、その好奇心が、万が一にもヘタレ心に勝ってしまわないよう、全速力で駆け抜けた。
無事家にたどり着き、今日のタイムを見たら、自分史上最速を記録していた。
少し嬉しかった。