味は確かなんだけど、雰囲気がイマイチな店ってよくある。
例えば今日、ランチで行ったカツ丼屋。タレが好みなので、この界隈に来たときは必ず立ち寄ることにしているのだが、今日はのれんをくぐるなり、新人らしきアジア系の外国人店員が先輩店員に怒られていた。
「だーかーら、何度も言ってんだろ。ソースはここ、割り箸は……」云々。
さほど大きな店ではなく、客も数えるほどしかいないので、その不穏なムードは一瞬にして店内に充満する。
すっかり寒くなった今日このごろだが、店内は外以上に冷え切っていた。
おーい、客が見てるぞ。
おれに”客だから偉い”という気持ちはない。念のため。
ランチタイムをだいぶ過ぎた14時台。多くはないが、店内にはおれの他にも数人のお客さんがいた。
にもかかわらず、その先輩店員はお構いなしに、言葉も声量も選ばない。
パワハラ、モラハラ、ハラスメントに敏感なこのご時世だけに、こうした空気はおれの好きなこの店自体を潰しかねない。ただ、それが心配なのだ。
さて、おれが入店してから説教し続けること約30秒。
ようやく新規客(おれ)の存在に気づくなり、先輩店員に背中を押されたその外国人店員ボビー(仮名)が飛んできた。
「い、い、いいらsっやいまし。ご注文なにになっっさいますkか」
相当たどたどしい。
「カツ丼お願いします」とおれ。
それを聞いたボビー、とびきりのスマイルで叫ぶ。
「はい、イッチョウ!」
この店では看板メニューのカツ丼を「一丁」と呼ぶ。
彼が厨房に向かって叫んだその言葉だけは、素晴らしい滑舌と発音だった。いいぞボビー。
これを聞いて、さっきまで怒っていた先輩店員も「できんじゃねえか…」と言わんばかりの背中で自分の仕事に戻る。全然関係ないはずのおれでさえ、心の中でガッツポーズをとってしまった。他の客も知らんぷりをしていたが、心なしかホッとした表情をしたように見えた。冷え切った店内が少しだけ温まった気がした。
「すんません、オヒヤください」
おれだ。
あまりに妙なムードのせいか、1杯目の水をすぐに飲み干してしまったのだ。ボビーのファインプレーに、少し気が緩んだのかもしれない。
しかし、直後におれは後悔することとなる。
「おひ?、ひっ、おひっ……?」
あろうことかボビーは、おれのこの言葉に再びテンパリ始めてしまったのである。
テンパる彼の背後には、洗い仕事をしながらこちらを覗き見る先輩店員の鬼のような表情。 ヤバイ、おれのせいだ。
先輩店員に聞こえないように小声で「水ですよ、水」と助け舟を出す。
彼は「あっ、み、ミズねー」と安堵の表情をこちらに向けた。
セーフ・・・。
「よかったな」。心から思った。
日に1度しかない貴重な昼食時に、これ以上不快な怒り声など聞きたくないし、なによりボビー、キミの悲しい顔はもう見たくない。
そうしてしばらく平和に食事していたところで、若手リーマン3人組が入ってきた。
雑談しながら入店してきたので、今度はすぐに気づいたようだ。
再びボビーは、先輩店員にアゴで指示(威嚇)され、押し出されるように注文を取りに走る。また、今にも泣きそうな表情に逆戻りである。
「い、い、いいらsっやいまし。ご注文なにになっっさいますkか」
やはり、たどたどしい。
たどたどしさも、ここまで来れば安定感がある。
しかしリーマンたちは、おれほど優しくはなかった。
当たり前だ。まだ彼らにはこの空気は伝わっていない。
「カツ丼」「俺もー」「ボクもー」
早口、かつ、やや食い気味の注文。
ちゃんと聞き取れたかな、大丈夫かな。
その瞬間からおれは箸を止め、ボビーに釘付けである。
彼はけなげに今受けた注文を反芻しているようだった。
大丈夫だ。
キミはやれる。
リーマンたちの言い方に愛はないものの、幸運なことに注文自体はいたってシンプルだ。
「カツ丼を3丁」、厨房に向かってたった一言そう叫べばいい。
頑張れ……!
おれは、祈るような気持ちでボビーを見つめていた。
他の客もたぶん心の中で十字を切っていた。
不安げなボビー、
先輩店員のキラリと光る目、
張り詰めるおれ。両手を合わせながら天を仰ぐ客。
空気を読まずにダベるリーマン……。
ざわざわ ざわざわ
リアル「カイジ」の世界である。
待つこと2秒、ようやく意を決したボビーはこう叫んだ。
想定外の一言である。
「イッチョウ! サンチョウ!」
・・・・・。
得体の知れない脱力感。
「イッチョウ(カツ丼)が3丁」。わかる。わかるけど。
咄嗟に先輩店員を見てしまう。
しかし怒るのかと思えば、呆れきって、もはや少し笑ってしまっている。ニヤニヤしながら別の作業を続けている。
リーマンたちはといえば、やはり何も気づかず、興奮気味に世間話に花を咲かせている。
オッケーだ。大丈夫だ。
よっしゃボビー、乗り越えたぞ!
心の中でハグを求めた次の瞬間。
「何言ってやがんだコノヤロー!!!!」
小さな店内に怒号が響き渡る。
先輩社員の声じゃない。
厨房の奥からである。
ついにはリーマンの雑談も止まった。
そう。
この店のイタ長は、先輩店員よりも怖かった。