3ヶ月に一度の通院。
待合室で待っていると、向かいの席に少なくとも80歳は超えているだろう老人と、高級そうなスーツを着た50~60歳くらいの紳士が座った。
患者は老人で、紳士は付き添いといったところか。
「おとうさん、5分くらいで呼ばれますからここで待ってましょう」
「おとうさん」が「お父さん」なのか「お義父さん」なのか定かではないが、敬語で話しているところを見ると義理の方なんだろう。
老人は聞こえているのかいないのか、天井と窓の境目あたりをぼんやり見つめている。
しばらくすると、ベテランの女性看護師がニコニコしながらやってきて、
「はーい◯◯さん、診察室行きましょうか。アラ、そのお帽子ステキねえ~」
慣れた態度で、まるで園児に対する保育士のように話しかける。
病院に定期的に通っているおれからすれば、まあよく見る光景ではある。ただ、何度遭遇してもその違和感は拭えない。
別におれは、病院は客商売で看護師はサービス業だ、などと思っているわけではない。
老人は「人生の大先輩」などという陳腐な言葉では表せないほどの長い人生を歩んできている。
看護師対患者ではなく人間対人間で接したとき、到底そんな言葉で語りかけるなどできないように思える。
想像しすぎかもしれないが、(義理の)息子の身なりを見るに、その(義理の)親である老人はある程度の成功を収めた人物かもしれない。
昭和の激動の時代を生き、かつてその辣腕で多くの部下を成功に導いてきた。
付き添いの息子が敬語であることから、老人は大会社の元社長で、娘婿にその地位を譲ったのかもしれない。もしくは、もしも実の息子であるならば、家族にもタメ口を許さないほど厳しい父親だったのかもしれない。
少なくとも、数十年前はエネルギーに満ち溢れ、躍動していたことは間違いない。
しかし、現在はその面影もない。
ベテラン看護師に帽子を褒められた老人は、「えへへ」と照れくさそうに笑っていた。
まるで保育園児のように。
ここ数年で「死」についてよく考えるようになったおれの一つの結論として、「人はグラデーションで死んでいく」というのがある。
病気や事故などの突然死は別として、人は死んだ日に死んだのではなく、成長曲線の頂点(30歳台くらいか)を境目に「徐々に死んでいっている」という考えだ。
「老い」とか「もうろく」とか呼ばれるものを言い換えただけかもしれないが、“思死期”を超え、死をリアルに意識するようになったおれとしては、その表現のほうがずっとしっくりくる。
「おれは何だってできる」「おれは天才か」――という万能感に溢れていた30代の頃。それから少しずつ何かを奪われ続け、20年近く経った今、あの頃できたことが何もできない。
「目が悪くなった」「早く動けなくなった」「記憶力が低くなった」という表層的なことだけじゃない、「集中力が持続しない」「アイディアが生まれない」「他人の気持ちを慮れない」といった根本の人間能力の部分にまで類は及ぶ。
こうした自覚のもと、病院で彼のような老人を見かけるたびに思ってしまう。
おれの行先はあの老人だ、と。
30年後か、40年後か。20年前の自分を思い浮かべれば、その加速度から十分に想像はつく。
突然なるんじゃない。徐々に、そうなっていく。
おれだけじゃない、誰もがそうだ。この緩やかな死からは誰も抗うすべはない。
おれはもう、だいぶ死んでいる。
……などとまるで絶望的な文章になってしまっているが、実はそれほどおれは悲観していない。
大切なことは、人は”毎日少しずつ死んでいるということ”と捉え、毎日が命日だと思って過ごすことだ。
もう30代の頃のような野心もない。
負け犬と後ろ指さされても気にならない。
未来のことは考えず、ただ今日を悔いなく幸せに生きること。
待合室の後ろの席。
静かに話す老夫婦の声が聞こえてくる。
「今日は本当にいい天気ねぇ……」
「……春だからな」
窓から差し込む暖かな太陽光に包まれながら、こんなとりとめのない会話で幸せを感じられる世界に、早く行きたい。