遺書(ブログ)

人間は記憶だ。

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いまフジテレビの夕方に再放送されている『記憶』というドラマにハマっている。
若年性アルツハイマーを宣告された敏腕弁護士が、日に日に薄れゆく記憶と戦いながら、最後まで自分の尊厳を守り抜こうとする姿を描く、壮大な人間ドラマだそうだ。まだ3話までしか見てないのでわからない。

“薄れゆく記憶”を感動の軸に持っていくという展開がいかにも韓国ドラマのリメイクという感じだが、50手前になるとこの「薄れゆく記憶」が現実味を帯びてきて、観ていて身につまされる場面が多い。

さっき見た第三話。息子の誕生日に、家族の待つレストランへと急いで向かう主人公(中井貴一)が、ふとした瞬間に目的地を忘れてしまい、雑踏の真ん中で呆然としているシーンは泣いた

息子の信頼を必死に取り戻そうとする父親。「どうせまた来ないよ」と諦めの声を漏らす息子。その関係性を知っていて戸惑う妻。どこにも憎むべき人間がいないだけに、この理不尽があまりにも切ない。

おれはアルツハイマーではない(たぶん)。ではないが、とても他人事には見えなかった。自分にもほんの数年後、こんな場面が訪れるかもしれない。

人間が人間たらしめているものは記憶だ。魂とか意識とはちょっと違う。
「あのときこんな行動をした」「そのときこう思った」「あの人から生まれて、あの場所であの人に育てられた」「あの人と出会い、家族をつくった」etc…
こういう過去の記憶の構成で、それぞれが人間として成立している。

だから、年齢を追うごとに記憶がなくなっていくことは、”少しずつ死んでいく”ことだと思っている。人間は、死んだ瞬間に「死ぬ」んではなく、グラデーションで死んでゆく。

実はこのブログに「遺書」と名付けたのは、この発想からだ。
記憶を文字で”遺しておく”ことは、上記の理屈で言えば、すなわちおれにとっての「延命」であり、アンチエイジングなのだ。

できるだけ命(=記憶)を遺したまま生き続け、死ぬときはグラデーションなく死んでやる!
この文章は一応全世界に発信しているが、おれ以外誰も読んでいなくても十分意味はある。10年後のおれが読んでくれればいい。
オーイ60手前のおれ、読んでるか?

さて、昨日は旧友が6人集まって久しぶりに飲んだ。
以前働いていた会社の黎明期。まだ会社とも呼べない頃に、昼も夜もなく大量の仕事をこなし、満足に睡眠も取らず、汗でドロドロになりながら必死で歯を食いしばってともに戦ったメンバーだ。ブラックだのホワイトだのという概念も存在していなかった。

誰も見ていないとはいえインターネット上なので一応モザイク

「同じ釜の飯を食った」では、ちょっと表現が足りない。
「同じ寝袋を使ってかわりばんこに寝た」。
ほぼ24時間365日苦楽をともにした”戦友”である。

この6人で過ごしたのは20年近く昔、期間にしてほんの2~3年だったが、全員が顔をそろえると、その頃のことがまるで去年だったかのように鮮明に蘇る。

たぶん、彼らと顔を合わせなければ一生開けなかったかもしれない記憶の引き出し。意外とたくさんあったんだよなあ。
思い出せてよかったという引き出しも、一方、思い出したくない引き出しさえも、この場所ではお構いなしにバンバン開放される。

“薄れゆく記憶”にアンニュイになっているおれとしては、この感覚はとても心地よかった。命を取り戻している気がした。

「おっさん(おばさん)って昔話ばかりするよな」
若い人からよく聞くクレームだ。おれも例外ではなく、若い頃は顔をしかめていた側だ。

申し訳ない。でも許してほしい。

おっさんにとって、昔話は記憶を甦らせること。
言いかえると、それはこれからも人間として生きるために大切な「生命行動」なのだから。

帰りの電車。
「楽しかったねー」
「終電乗れた?」
などというグループLINEを眺めながら、”おれのクソ人生も捨てたもんじゃないな”と、アルコールに上気した顔をニヤつかせていたら、目的駅で降りるのをすっかり忘れていた。

1駅先で降り、中井貴一のごとく駅前の雑踏の真ん中で呆然とするおれ。泣いた。

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