遺書(ブログ)

年賀状は、おれたちの世代が墓場まで持っていく。

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今日、無事に今年の仕事を納めたので、いま年賀状を慌てて作っている。

2019年用のフレームに、今年の家族写真を選んではめ込む。
たったそれだけの話だが、毎年これが本当にしんどい。

まずはフレーム。
以前はフレームをイチからデザインしていたが、もはやそれほどこだわりもないので、2年ほど前からは検索で無料画像を探している。

そして写真。
今年は夏に家族でドイツ旅行に行ったので、その中から娘が写っているものでベストなものを選ぶ。

そうして出来上がったのがこれ。

(笑)。

ホントに。

青臭いことを言うようだが、今どきこんなものを誰が欲しがるのだろうか。と、毎年疑問に思う。

本当は、その答えは日本国民全員知っている。

年賀状は不要だ。

作るのは疲れる。
1枚あたり62円かかる。
もらっても良いことは特にない。
もらったら返さなければいけない。

なんだこの風習。

「必要ない」と思いながら何かを作るのは、いくら手抜きしたとしてもつらいものだ。
「こんなものは無くしてしまわないか?」。心の中で毎年叫んでいる。

電子メールが普及してきた20年ほど前から、徐々に年賀状の存在意義は疑問視され続けてきた。

今年は、平成最後を機に「年賀状じまい」を目論む人も増えているという。”平成最後”との関連性がよくわからんが、ともかく、誰もが”やめるきっかけ”を求めていたということだろう。

うちもそうするか?
今年で「年賀状じまい」を宣言してしまうか?
例年になく葛藤する。

やめた方がいいのは明らかだ。
やめれば毎年のわずらわしさも消え去る。それなのに――

それなのに何故いままでやめれられなかった?

答えは簡単だ。
毎年送り合っている人が誰もやめないからだ。

こちらから止めてしまうのは気が引けるが、相手が送るのをやめてくれれば、喜んでこちらも年賀状リストから外す。

おれが止めるか、相手が止めるか。
そんなチキンレース。

紛れもなく、これが年賀状存続の正体だ。
郵政省はとんでもない永久機関を作り出したものだ。

だったら、その正体に気づいているおれから止めればいいだろう。おれから世界を変えろよ。おれが率先して悪循環を終わらせろ。

正論だ。

しかし、今年も、来年もおれはこの悪しき風習を断ち切ることはできないだろう。

年賀状の相手先リストを眺める。

そこには親戚から昔の上司、同年代の友人までが並んでいる。
彼らは、現代の主要連絡手段であるところのLINEどころか電子メール、携帯電話さえもつながっていない面々が多く含まれている。

なかには、年賀状という唯一の”つながり”を断ち切ることで、おれの人生から完全に消え去ってしまう人もいる。

「そんな関係なら消えてもいいんじゃないか?」

それも正論だ。
ただ、このリストに今も並んでいる面々には、それなりの思い出がある。恩もある。1本の蜘蛛の糸のような関係でも、今後助けてもらう可能性はある。
簡単に消し去ることなどできない。

この感覚は、おれの世代までなんだろうなと思う。

その証拠に、このリストに並んでいるのは、上の年代からせいぜい同年代までだ。

30代以下の若者は、周囲の人々とSNSやメール、携帯電話と、幾重もの太い線で繋がっている。仮にこのうち1本が不通になっても、関係が切れることはありえない。

そうだ。だから下の世代からは、既に年賀状は「断ち切られている」。関係を切られたわけじゃない。
若い世代とは、別の線でつながっている。

これに気づき、ようやく”年賀状問題”の答えを垣間見た気がした。

年賀状という悪習を続けているのは、おれの上の世代だけじゃないのか?
おれの下の世代は、既にやめているのではないのか?
そして、迷っているのは、間に挟まれたおれの世代だけじゃないのか?

既に、年賀状という悪習は”終わりの始まり”を迎えているのではないか?

こう考えると、ある意味ホッとした。
おれが世界を変える必要はない。

おれは少々面倒でも、ここでしか繋がれない人々のために、そして、人生の先輩へのご恩のために続ける。

新しい世代は、是非ともこの無意味な悪習を断ち切ってほしい。
年賀状は、おれたちの世代が墓場まで持っていく。

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